風景はどうやって書くのか。村上春樹さんに聞いてみた。

 

 こんにちは。

 僕が住んでいる海辺の町はまだまだ寒くなっていきそうです。ほんとうに寒くなると身体の内側の筋肉がこわばってしまうのでしんどいですよね。

 そんななか、先日の夜、近くの川の河口付近を散歩していました。でも散歩というか、ただしばらくのあいだ堤防に座っているだけです。歩きたいときは河口から1㎞くらい先にある駅へ向かいます。昨日は寒かったので座って過ごしました。干潮した海を眺めていると、こんなにも干潟部分って大きかったかなぁと不思議な気持ちになりました。どうして大きく感じるのかなと思った結果、たぶんこういうことです。

 干潟には、よく洗われた生成り色の貝や黒い海藻が、潮水と海風によってぼってりとつくられた砂紋に、へばりつくように散らかっている。そうやって色をつけられた何本もの砂紋たちが半メートル間隔にくねくねと這っていて、それを僕は堤防の上から全体的に見わたすことができた。

 でも、それだけでは少し言い足りない感じで、まだ風景というパースペクティヴをつくることができていない気がする。やっぱりやってみよう。

 色のついた砂紋はこりこりと溝を掘るみたいに平たい干潟を刻む。そして、砂紋は、濁った濃い紺色の水面を波打ち際からリズミカルに切っていく。大陸棚のあたりまで進んでいき、歯車を合わせるみたいに波とかっちり嚙みあう。少し目線を遠くにやると、波と波の間隔は干潟の砂紋たちの倍ほど大きく保っているのが分かる。砂紋は海紋に変わる。海紋と水面の波は深度が大きくなるにしたがって、つながりをほどいていく。倍の間隔を見つけたということは、そのときにはもう砂紋は海底へと沈んでしまって、水面と砂紋が相互に独立したつながりを新たに結ぶようになったということだろう。もう水面の波からは存在が見えなくなる。砂紋は固い意志を持って深く這うようにして海底へ沈みこんでいくのに対して、波は陸風と海風のつり合いだけを表現することになる。つながりはせめぎあって、溶けた。

 堤防から見える干潟が大きく感じるのは、たぶん、自分の意識が手前の干潟だけでなく遠くの海へと、また見えないものにもまで向かっていくからでしょうね。つまり、「見える」のは堤防や干潟や波や底で、それらが一体的に動いている風景なんです。だから大きく感じる。さらに「聞こえる」ことも大切な要素になる。干潮は夜の海浜に現れてすごく優しい音を出している。ざっぱーん、ではなくて、ざざぁ。ほんとは最初の「ざ」の後ろにも間隔があって、小さい「ぁ」が入っている。ざざあが1つの音節だとすると、その音節同士はちょっと緊張しているみたい。夜の無音の寝室で、隣の人がすぅっと鼻から空気を吸うような感じする。でも人間が寝ているときに出しているような軽い音でもない。海底からずっしりとした層を運び、重くて深くて真黒い音を砂浜に送っている。ざざぁざざぁ、ざざぁざざぁと眠りこんでいる、そんな感じだった。

 おととしの夏ごろからこの河口に通っているけれど、やっぱりこの風景は好きです。何度来ても飽きないです。

 

 

 さて、連日の投稿です。

 年末年始に読んだ小説の感想や疑問点を書き出していました。

 ここで綿矢さんから離れて、村上春樹スプートニクの恋人』のことを書きたい。

 村上さんの小説はずっと前から好んで読んできました。『風の歌を聴け』や『ダンス・ダンス・ダンス』、また『ねじまき鳥クロニクル』などです。今回は『スプートニクの恋人』で、『村上春樹全作品 1990~2000 ②』に収められているものを読みました。なぜ単行本や文庫ではないのかと言われれば、『村上春樹全作品』には村上さん自身の『解題』が付いているので、これはぜひ知りたいと思ったからです。村上さんが自分の作品の内容にまで触れて語るということを今まで聞いたこともなかったので、尊敬している作家の一人としてこれは読まなくちゃと思ったのです。

 でも、村上さんの『解題』を読んでから物語を読み始めるというのは、なんだか自分の感性が枠づけられるような気がしたので、今回は物語を先に読み始めました。

 

 主人公は20代後半で小学校の教師をしている「ぼく」です。物語は、「ぼく」と同じ大学に通っていた「すみれ」が年上女性である「ミュウ」に恋をしているという設定です。こう書くとうかがえるように、「ぼく」は“語り手”として物語を進行し、主軸である「すみえ」と「ミュウ」の関係に迫っていきます。

 とくに、「ミュウ」と「ぼく」がギリシャで初めて出会ったシーンが印象的だった。

 二人はそれぞれ忙しい用事を済ませたあと、とてもおなかが減っていた。タヴェルナ*1ギリシャ語でこじんまちとしたレストランのこと)に入り、オリーブとパンをつまみ、白ワインを飲む。ギリシャ風サラダとグリルした大ぶりの白身の魚(塩、レモン、オリーブオイルをつける)を食べて、食後のコーヒーを飲んだ。これだけでもかなりの色が描かれているのが分かる。読み手としては、カラフルさを目で楽しみ、またギリシャ料理であっても簡単に想像がつくメニューだから、その匂いをも感じとれる。そして、それらを視界と鼻腔に残したまま食べ終えて外に出る。

店の外に出ると、染料を流し込んだような鮮やかな夕闇があたりを包んでいた。空気を吸い込んだら、そのまま胸まで染まってしまいそうな青だった。(p.343)

 「ぼく」はタヴェルナから出たあとに、色のついた風景を見て、それを「胸まで」感じる。ということは、外の空気(色のある風景)を先ほどの夕食の匂いとともに身体に染みこませることでもある。風景を視覚だけでなく嗅覚まで使って表現し、調和させているのがとてもよかった。凡人である僕がギリシャの風景を絵画として描こうとしたら、風景だけをそのまま描こうとする。もちろん「そのまま」描くことなんて物理的にも時間的にできない。そういうことを意識してもなお、たぶん僕は風景だけを描くと思う。それではやっぱり文脈がぶつぎれになってしまう。文章でいえば、段落と段落の意味関係がつくれていないともいえる。「空気を吸い込んだら」という切り返しが、やっぱりこの文章の核だと思う。また、単に「こげた」とか「潮の匂い」とかいういわゆる匂い一般を「吸い込んだ」のではなく、「胸まで染まってしまいそうな青」という文脈的に特定のもので、かつ一般的には匂う対象ではない色を匂っている。淡々と事実をベースにしながら書かれる比喩が、面白い。

 他の作品でもそうだけど、村上さんは風景描写がほんとにうまい。この引用文までに約5ページほど割いていることから分かるように、村上さんはじっくりと風景を描きこむ。ほんとにすごい。尊敬する。

 だから、この箇所は読んでいる途中で抜き書きしていた。全体を読み終えた後に『解題』を読むと、最後にこう書いてあった。

またもっと細部的なことを言えば、この小説の中でギリシャの島の風景をたっぷりと描くことができたことは、僕としては大きな喜びだった。僕は1980年代の後半、けっこう長いあいだギリシャの島で生活していて、そのあいだに僕が吸っていた空気や、瞼に焼きつけられた情景や、そこにあった独特の匂いや肌触りを、僕なりにありありとした文章に移しかえたいとずっと望んでいたのだ。僕はその部分を文章として書きながら、もう一度その土地に戻って、実際にそこにある空気を吸い込むことができた。それは素晴らしい体験だった。だからもし読者の中にこの小説を読んで、「すごくギリシャに行きたい!」と強く感じた方がいらっしゃったとしたら、『スプートニクの恋人』を書くにあたって僕が抱いていた小説的な目的の一部は具体的に達成されたということになるのかもしれない。(pp.500-501)

読み手である僕も「実際にそこにある空気を吸い込むことができた」。「細部的」とはいえ、村上さんが書きたかったものを1つ受けとれてよかった。ギリシャに実際に行けるかどうかは分からないけど、行きたい気持ちになりました。

 

なんだか今回は小説の風景みたいな話にまとまってしまいました。

書いては読みかえすを繰り返すうちにテーマは出てくるものですね。

面白いです。

ほなまた!

 

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(追記)

僕が河口の風景について書いたので、村上さんの海の風景の描き方についても紹介したいです。ちょうど先日は阪神淡路大震災の「1・17」だったことから、村上春樹「アイロンのある風景」〔同著者(2002)『神の子どもたちはみな踊る新潮文庫〕から一節です。この短編の初出は『新潮』1999年9月号みたいです。

2月のある日の夜中12時、「口を開くと、息が言葉のかたちに凍」るほど寒くて不穏な空気が海浜に流れている。そんななか「順子」と「三宅さん」と「啓介」の三人が焚火をはじめようとしているシーンです。

階段をのぼって堤防の上に立つと、いつもの場所に三宅さんの姿が見えた。彼は砂浜に打ち上げられた様々なかたちの流木を一ヵ所に集めて、注意深く積み上げていた。中にひとつ大きな丸太が混じっていた。ここまでひきずって運んでくるのはひと仕事だったはずだ。/月の光が海岸線を研ぎあげた刃物に変えていた。冬の波はいつになくひっそりと砂を洗っていた。ほかに人影はない。(pp.49-50)

「月の光が海岸線を研ぎあげた刃物に変えていた」というところが、いいですよね。夜中の台所で誰かが刃物をひっそりと研いでいるような音が聴こえてくる。海浜に怪しさが出ています。なぜ「恐れ」みたいなものを出す必要があるのかは、ぜひ読んで感じてみてほしいです。この風景も村上春樹さんの作品のなかでわりと好きなものです。

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*1:余談だけど、だいぶ前にyoutubeでイタリア人と日本人のカップルの動画を観ていたことがあった。カップルの会話ネタで日本語で「ご飯食べに行こう」という誘いに対して、イタリア語で「食べるな!(タヴェルナ)」とわざと答えていたことを思い出した。タヴェルナはギリシャ語なのか、イタリア語なのか分からないけど、まさかこの小説で再び出会うことになるとは思いもしなかった。あのyoutubeチャンネルはもう見れないけど、二人とも元気かなぁ。優しい冗談やサプライズが好きな方たちだった。