本を読むことと信じること

 

 12月1日に「もう12月かぁ、早いなぁ、今年ももうすぐで終わりじゃないか」と思ったのが昨日のようで、もう12月も10日となってしまいましたね。こう何気なく、それでも着実に日々を過ごしていると考えることと時間が過ぎることがうまくリンクしてこなくなってきました(笑)。このままだと「もう12月も10日かぁ」という考えを1週間後も引きずりそうな予感がします。いや、やばいね。12月31日にもそう思っていたらと思うと…。むしろ、こういうことを思い出すからこそ「時間が過ぎる」ということを僕らは感じているのかもしれませんね。どうだろう。

 

 さ、考えてもよくわからないことは後回しにして(笑)、今日は読書についてのブログです。

 急ですが、みなさんは買ったりあるいは借りたりした本をどれだけ読み切りますか? たとえば、図書館で借りた本を返却期限内にすべて読んだという経験がある方はどれくらいいるのでしょうか。といっても、何冊借りるかに依りますよね。僕の場合は、1冊だけ借りるということをまずしません。ほんとに、思い返してもないですね。たいていは3冊か4冊借ります。でも僕の最寄りの図書館の返却期限は2週間です(公共図書館だしみんなそうなのかな)。休館日が重なったりなど特別な理由がない限りはそうですよね。となると「2週間で3冊読む」ということになり、これはなかなかのハイペースではないでしょうか。

 もちろん本の内容にも依るでしょう。いやいや、お前はそんなこと言うけど、絵本や図録など活字が少なめのものならいけるでしょと思われる方もいるでしょう。けど、仮に絵本を3冊借りたとしても結構難しいのではないでしょうか。絵本は絵本で絵の読み取りや活字の読み(しかも意味の読みを合わせると)などけっこう時間がかかります。しかも、たとえば、「一日3時間絵本にじっくり目を通せる」なんて方は、そういうことを専門としている研究者や作家の方でない限り、そういないのではないかと思えます。となれば、絵本より活字の多い新書や文庫本といったものはいわずもがな、と言えそうでしょうか。

 ちょっと一般化し過ぎたよう感じもするので、僕の個人的な事情にうつりたいと思います。僕が図書館で借りる本といえば、これまでの経験からすると新書、学術内容や小説などの文庫本、社会科学系の単行本あたりでしょうか。。。「なんだ、お前難しい本ばっか借りてんじゃねーか、だからそんなこと言うんだよ」という意見に対しては「難しい」の基準がよくわかりませんが、この種の本は「文字数が圧倒的に多い」ということについては、ほんとそうだねと思います(笑)。文字数が多い。しかも、「一日3時間」も読めない。。なので、図書館で借りた本をすべて期限内に読むということはあんまりしたことがない。

 こうも「読み切る」ことが少ないことって、なぜ起こるのだろうかと気になってきたんです。文字数の多さや時間的な余裕といった理由だけではないのかもしれないなと思ってきて。

 思う節があるのは、本の読み方です。たんに知識を「知る」という読み方ではどうも興味が湧いてこない。でも、そういうことばかりではなくて、事前に「知りたかった」ことを「知る」ことができたときはいいんです。おもしろいと思う。でも、それで終わり。一過性の興味だけで済んでしまう。今日寝たら興奮も忘れる。それで良いのかどうか自信が持てなくってきたんです。

 一過性の興味だから、ほんとうに自分に迫ってくるような関係のある内容か分からなくなる。そうなるから文章の筋を理解するのがめんどうになる、おもしろくない。結果「読み切る」ことがない。こういうプロセスをたくさん繰り返してきた、ということに最近意識的になってきたんです。じゃあ、どうしたら「読み切る」ことができるのだろうか。そもそも「本を読む」ことは知識を「知る」ことだけを意味するのか。知識を「知る」ことだけが目的ならばインターネットが手早いから、それでいいじゃないかともなる。じゃあ、「本を読む」意味ってなに。

 そう思って、だいぶ前に大学のゼミで輪読した内田義彦『読書と社会科学』をあらためて読み直そうと思いました。詳しい内容がどうだったかまで覚えていなかったけど、「本の読み方」については確実に何か書いてあったと思い出し、本棚から手に取りました。 

 

 ↓↓ 内田義彦『読書と社会科学』www.iwanami.co.jp

 

 内田義彦の独特の文体が若干読みづらいけど(汗)、「何を言おうとしているのか」を頑張って読みとりたいな。

 第1章の「「読むこと」と「聴くこと」と」は、なかなか読み取りに時間がかかりました。これってかなり意外なんです。おかしい、以前ゼミで読んだときはすいすいと内容が分かったと思えたのに。たくさん線引きがしてあることも、たぶんそのときははっとさせられたんだと思います。でも、今回読んでみて全然「分からない」(笑)。えっ、どゆこと?という文章が多々ある。

 とくに意味の読みとりが困難だったのは次の部分。

いま、ちょっと見たように、信じることがなければ読み深めの労は出てこない、それよりもまず、労を払って解くべき問題・事実そのもの――解読すべき本文の字句――が、信の念がなければハッキリとした形で目に映ってこない。(p.38)

 内田さんが「本はどう読むか」という「問い」を設定し、「踏みこんで」読む*1と「答え」ました。では、それはどういうことかについて書いてあるのが上記の引用文です。

 「信じることがなければ・・・解くべき問題・事実そのものが、・・・目に映ってこない」。少し乱暴なのは承知で文の「骨格」だけを抜きとれば、上の一文になると思うんですけど、この意味がよく分からないですよね(汗)。なぜ「信じること」と「問題・事実そのものを解く(べき)」ことが、必要条件的な論理の関係になっているのか。どゆこと? 「信じること」ってそれにあたってほんとに必要? なぜ必要だと内田さんが言うのか、引用文の後にその中身がありそうな感じなんだけどいまいち読み取れない。。何回も読み直しては混乱に陥るというのが、実は5日くらい続いています(笑)。ゼミのときは「分かった気になった」という感じだったのが、ほんと冷や汗です。丁寧に読まずに済ませてきたなぁと思い知らされています。ほんとこういう抽象的な文章を想像力をつかって自分のなかで血肉化させるのが、まだまだだなぁと思いました。

 ということで、この本もまだ「読み切る」ことができないままです。誰か助けてほしいです(笑)。

 今日はこんなところで。

 ほなまた。

 バイバイ。

*1:本文中の別の表現としては「古典として読む」とほぼ同義だと思います。ネットのレビューを見ると「古典として読む」の内容を「情報として読む」と対比させて書いている方がいましたけど、個人的にはその段階では内田さんは「古典として読む」の性格に言及しただけで、その具体的な中身について話していないように読みました。ので、「踏みこんで」がどういった意味かが大事かと思います