ぶらり山之口

 

前回に引き続いて。

都城のあちこちを周っています。

けっこう写真も溜まってきたので、載せていくことにします。

 

 

2月27日。

山之口あじさい公園にて。

5月から6月頃にあじさいがいっぱいに咲くそうです。

今まだ、ただの雑木といった感じです。

これからどうなるんでしょうか。楽しみですね。

写真の時の季節は2月。まだあじさいは咲きません。

あじさい公園は標高200m強の丘陵になっていて、それも胸のあたりに位置しています。じゃあ頭はなんだろうと撮影場所のすぐ近く右手側の階段を登っていくと、お城がありました。

松尾城です。

大阪城や姫路城のような派手さはないお城ですけど、こじんまりとしていて、素朴な外観をしています。

鎌倉時代から室町時代に建てられたらしいですが、お城そのものはそのまま残っているわけではなく復元だそうです。

そのころのお城はたいてい戦闘に特化してつくられたそうで、金銀財宝を費やし装飾もつけて意匠を凝らすといった風ではないようです。立地を考えて防御に徹しようとしたのでしょうか。着飾る鶴より守る亀。そんなお城でした。この城を築いた肝付兼重はきっと、地味な人だったんだろうと思いました。

松尾城には展望台があります。

いざ展望台へ入る扉を開けて、外に立ってみるとものすごく強い風が吹いていました。

盆地の風です。

でも当たってみると、けっこう気持ち良いですよ。

 

さて帰ろうと降りてみると、珍しいものがっ!

桜の木に宿木!

丸い形をしている寄生木です。

訪れた際はどこにあるか探してみてください!

 

さて、あじさい公園の駐車場に車を停めたまま丘を降り、地元では有名な「腹切っどん」の石像を見に行きました。兼重神社のなかにありました。

左の腹に深い傷跡がある。

説明板

兼重神社から松尾城がちらりと見える。

僕は当初この伝説をパートナーから聞いて「腹切っどん」というのは兼重のことかと思っていたんですが、違うようですね。家臣の家定のことのようです。兼重さん、ほんと良い家臣に恵まれたなと思いました。この伝説が本当だとすれば、そんな人なかなかいませんよね。

「腹切っどん」に刻まれている梵字らしき文字と切り傷が、昔のアグレッシブな武将感を醸し出しています。よく分からないけどカッコイイですね。

 

今回の都城は、あじさい公園と松尾城、腹切っどん像でした。

 

 

 

 

 

 

 

写真の回

 

年が明けてしばらくが経ちました。

そして、引越しました。

場所は宮崎です。

だいぶ遠くまで来ました。

慣れ親しんできた関西とは言葉も気候も違うところです。

 

今回は、これからしばらくは腰をすえて住むであろう宮崎の、色んな写真を載せようと思います。車であちこち周りました。

写真は、ブログ用にしようと思って撮ったわけじゃないです。

いいなと思った風景をあとで家に帰って見直そうと撮ったものばかりです。

全く自分で楽しむ用です。

そのつもりでした。

ただ、いくつかの写真をパートナーに見せたところ、

こんなところわざわざ撮る人はいない、やっぱりあんたは都会人や、と喝破されたので、そうか自分は都会人なのかと考えさせられました。言うなれば無意識のうちに都会人の視点で撮ってしまった写真。そういうところでしょうか。

僕はパートナーの言う「都会人」には懐疑的というか、もう少し中身のトーンを下げて言うと、然もなしではないかと思っています。

僕としては、「都会」や「田舎」といった概念は実態としてではなく一種のイメージとして成立していると思います。

僕の地元の神戸は「都会」ですが、自治体としての神戸市はとても広く、海側の三宮や神戸周辺は雑居ビルや飲食店が密集しているものの、六甲山を超えて北側には山林や田畑が拡がっている所もあります。つまり、自然溢れる地域=「田舎」と考えるなら、神戸市にも「田舎」はあるともいえます。逆に「都会」=雑居ビル群と飲食街というなら、ここ宮崎の都城一部地域は「都会」です(そうそう、僕は都城に引っ越したのです)。

僕がこっちに引っ越してきた当日、とあるカフェの店主に事情を打ち明けると、「こっちは『田舎』でしょう?なんで神戸の『都会』から来たの?」と訊かれました。店主の意図はそのあとの会話の展開、「仕事で?」「どういうった仕事なの?」といったもので、ただ身の上話をしてみたいという次元です。『田舎』や『都会』とは何かという議論ではありません。なので、こうして議論の具体例として使うのは、事実の切り取りにも似た罪悪感を感じるのですが。

それはそうとして、でも実は、このカフェは駅前にあり、その数メートル先には飲み屋街が密集しているのでした。宮崎の『都会』で話をしているのに、土地のイメージとしては『田舎』なのです。これこそが不思議です。

 

話がよたよた且たらたらと進んで、すみません。

つまりは、車であちこち周って写真を撮っていると、

レンズから風景を写しているようで、同時にその写真は、僕自身の「都会」や「田舎」の心象を光の反射のように写しているのではないか、と思った。そういうことです。

もしあなたが「都会人」でこういう風景を撮ってしまうとすると「あるある」と思うだろうし、反対に「田舎人」なら「何の変哲もねえぞ、これは」と思うかもしれません。

 

ともあれ、さっそくどうぞ!

 

金御岳から都城盆地

金御岳の南側。この山をいくつか超えた先は志布志市

山之口町熊野神社からの展望。

同じく熊野神社から。奥が霧島山。畑と都市のコントラストが都城っぽい。

熊野神社の急階段。並木は桜がメインで春になると綺麗になる。どうでもいいけど、一体何段あるのか数えながら上がると、116段だった。しかしパートナーは117段だったと言い真偽は不明。ぜひ登って数えてください。平面な田畑が拡がるなか急に丘が出てくるのが不思議で、魅力的な場所です。

田島かくれ念仏洞穴。石碑があります。

もっと近くで。

説明版もあります。

洞穴の入り口。中は高さ126㎝、直径220㎝とあるから2畳より少し大きいくらいか。大人4人入ればいっぱいになりそう。

硬貨のようなものが置いている(あるいは供えられている?)。

 

金御岳、熊野神社(山之口)、田島かくれ念仏。

都城の自然と歴史をもっと知りたくなる場所でした。

 

 

年の瀬

 

年の瀬だ。

いよいよ今年も終わりということを意識し始めたときに、ふと思い出す会話がある。

いつの冬だったかもう忘れたけれど、同年代の友だちと近所のバーに飲みに行った帰り道でのことだ。ひんやりとした空気がちょうど良い夜だった。もう深夜になっていたと思う。僕とその友だちは駅前から離れるように歩き、大きな国道を渡り、南北に細長く伸びる公園沿いを南に向かって歩いていた。ハイボールをけっこう飲んだわりには意識はちゃんとあった。お互いに言葉数は少なくて、なにか一言質問すれば一言返ってくる程度の、温泉にどっぷり浸かった後の卓球遊びみたいにふぬけた調子で、特に何も考えなくてもまあ会話くらいは成り立つほどのことを話していた。あいつは元気かなぁ、さぁどうやろ、全然知らんな、とかそのあたりの会話だ。ちなみに僕と彼は同郷である。僕は数年前に地元に帰って来て、ちょうどその前あたりに彼は仕事で地元を離れた。もともとお互い、地元にいなければならないという固い信念みたいなのは持っていない(少なとくも僕はそうである)。だけど、たまに彼がこうして帰ってきて、一緒にバーに行ったりして飲む。帰ってくれば自然に誰かの顔が浮かび懐かしむ。お互いに近況を報告する。そんな感じだ。どちらも酒はよく飲む。彼は普段からよく飲む。近所のバーにも行く。僕は安物の缶ビールをワンコインの範囲でちびちび飲む。家で飲む。外にはめったに飲みに行かない。ご飯も家で食べる。彼はほとんど外食らしい。下腹が出てきた、やばいと言っていた。そらそんな風なら出るやろうと思った。今年の健康診断は大丈夫だったのだろうか。また可哀そうという顔で聞いてみたいと思う。彼は笑いながら「それがなー、」と続けてくれるであろう。彼は根がポジティブであると僕は知っている。

そして、二人して歩きながら黙って煙草を吸った。しばらくそんな調子で歩いていると、公園のまん中あたりで警官が数人うろついているのが見えた。煙草はいったん吸い終えて手持ちの携帯灰皿に捨てた。彼も僕の灰皿に吸い殻を捨てた。念のため、というように。一度は警察の横を僕らは通り過ぎた。だけど彼は昔から警察が好きだから立ち止まってふり返り、じろじろと向こうを見ていた。僕もつられてなんとなく見た。何かあったのかなあと会話したが、特段騒ぎも何もないように見えた。なんやろうなと思いまた煙草に火をつけ、歩き始めた。

寒かった。

そして、話すべきことがなかった。

何の拍子にか分からないけど、彼は最近投資を始めようと考えていると言った。現政権の経済政策でごり押しされている、あの横文字の投資である。

そうなん、と僕は言った。僕は彼が結構なお金を毎月稼いでいることを知っている。もちろん具体的な金額までは知らない。そこそこもらえているという彼の言葉から推測しているだけだ。だから投資をする元手があることも分かる。一方で、それと同時に苛烈な長時間労働と新人に任せるには責任のあまりにも重い役職に就かされストレスを抱え暮らしていることも知っている。酒もよく飲むはずだ。そして疲れている。だから彼は細かい制度の内容はまだ分からないとも思う。僕もそんなに詳しく知っているわけじゃない。でもそんな状態で投資という言葉が出てくることが、何となく分かる。投資をする人は、制度を詳しく知っているから始めた人ばかりじゃないと思う。何となく、漠然と、という人が多いのではないかと、とりわけあの横文字の投資に関しては思う。たぶん。

失敗したらどうするん、と言ってみた。

失敗しても自分が賭けたものだから納得する、と彼は深みがあるように言った。

虚勢を張っているのかどうかまでは分からない。だけど、そもそもなぜ投資をする必要があるのかと気になったので、訊いてみた。いまなぜ、と?

将来のことが気になるからと言う。年金がもらえるのかどうか不安だとも言った。「老後にはあと2000万が必要です」だっけ?なんか現政権が言っていたことを思い出した。その他にも将来の老後の生活のあり方について色々と、生活水準がどうとか遊びのためにはとかさまざま話した。理想的な老後の姿があるらしかった。その像についてはなんか良いなと僕も思った。

だけどそういうことを考えるのって根のところでは、いかに死にたいかを考えてるって感じ、そういうのある?、と僕は訊いてみた。

そう、と一言言葉を発したあと、その質問について彼はなにかを一生懸命に話し、そして答え続けた。重大な問題だったらしい。突然温泉卓球遊びが公式試合の様になった気がした。汗も出そうなほど熱くなった。僕はただ聞いた。だけどそれは漠然としていてよくわからなかった。球が無いのだ。なにかを猛烈にイメージして素振りの練習をするみたいだった。強迫的、とも思えた。いかに死にたいかを考えているのだろう。だけど出てくるイメージに悲壮感が無いのが不思議だった。さっきも言ったけど出てくるイメージは理想的な老後生活なのだ。しかし、そのイメージを駆動させる力はいずれ来る死という事実だった。

生きていくのは難しいなと思った。

それにしても、あの横文字の投資は逆から見て一体なにを売っているんだろう。

まさかアメリカの軍需産業関連の株を知らずに買っていたなんてことがあるとしたら、嫌だな。

 

 

 

 

 

 

叩いたら埃が出る布団のような話

前々から人とかかわる上での違和感がある。

それが何なのかうまく言語化できないので、今すぐに「こういう違和感である」と続けることができない。キーワードくらいなら出せると思う。お金と枠づけと自由。それぞれがどういう論理的な関係をもっているのかもいまいちよく分かっていない。分からないことだらけだ。

違和感の顕著な例として、今から書きたいと思う。

 

休みの日に友達と白浜に遊びに行くとする。

僕はせっかくの休みだしのんびりしたいと思う。海で泳いでくたびれて、温泉につかり癒されて、刺身盛りにビールをあわせて良い気分になる。少し手を伸ばせば触れることのできるユートピア。誰もが憧れる楽園である。

さて、こういう遊びには必ずお金が必要である。海に行くまでの電車代や入湯料、そして食事代やアクティビティ代などもろもろある。いろいろお金は必要である。お金は旅行のみに限らず普段の日常生活を維持させる。旅行と日常生活をお金を軸にして天秤にかける。だから〈なるべく安くなるべく良いモノ・コトを〉という生活原理が生まれる。なぜなら、ある人の手持ちの全財産が100万円だとして旅行代金をすべてつっこむということはめったに起こらないことと思えるからだ。生活資金分は残しておきたいとほとんどの人なら思うだろう。毎月の財布の収支が厳しいのならなおさらだ。

この原理を白浜旅行に適用しよう。

まず移動手段から考える。移動手段には、兵庫→白浜を想定して現状、車や電車や飛行機に徒歩や自転車が考えられる。車でも自家用車かレンタカーがあると思うが、さしあたりレンタカーしか使えないと考える。そしたら次はレンタカーはどこで借りるのが一番安いかになる。AとBとCの候補があるとして、C社が一番安いのでそれを借りる。今それを5000円(終日)だとしよう。こうして車で行くのであればC社の5000円レンタカーが選んだ中の一番安いプランということになる。以下移動手段自体にお金のかかるもの、すなわち電車と飛行機でも同様のことを考え車と比べた結果、電車で行くことが一番安いことになった。電車は3000円(往復)である。

次に宿代。白浜エリアにまず宿がいくつあるのかを考える。10候補あるとしてその中から一番安いものを探す。また、なるべく海に近い方がいい。遠ければそこまでの移動時間と費用がかかってしまうからだ。仮に海とA宿の距離が10メートル、B宿までが2キロメートルあるとしよう。2キロメートルは歩けないからタクシーを使うとすれば500円になる。10候補のうち値段が安い方から数えているとして、A宿が5000円、B宿は4800円だ。確かに宿の中で一番安いのはB宿だがそれを選べば追加料金1000円(タクシーの往復)がかかり、5800円という結果になる。したがって、A宿が決定する。この結果は10店舗のうちで一番安い宿はBだから〈なるべく安くなるべく良いモノ・コトを〉という原理には反するけれども、海までの移動距離と費用を追加的に与えた条件として設定することで、その点ではAの方がその原理に合致することになる。

さらに買い物について……、もうここまでにして話を進めたい。なんとなく言いたいことが自分自身見えてきただろうか。

要はまず一つ違和感なのは、のんびりしたい旅行のわりには、〈なるべく安くなるべく良いモノ・コト〉原理を適用すると、かなり多くの下調べが必要で、あれこれ引き出した情報を選び、時には追加的な条件までもちこんで旅行をしなければならないことだ。とにかく大変なことである。もちろんそういうことを考えない時間もある。海に入って泳ぎまくるか、お湯につかってぐったりするか、寝ている時かもしれない。一方で、旅行全体としてのんびり過ごすことはできないように思える。大半の時間は、検索の時間、判断の時間、議論の時間に費やされてしまう。

でもこの違和感が生まれるのはそもそも、のんびりしたいという目的と〈なるべく安くなるべく良いモノ・コト〉原理が対立するからなのだろうか。のんびりしたいけれどあの原理自体も大切だと考えるなら、仮に旅行全体がのんびりにならなくても良し、と考える人もいるのではないか。たぶんいるだろう。けっこう要領よく物事をこなすタイプにちがいない。

僕はそれでも全体としてのんびりしていたい派だ。なぜなら〈なるべく安くなるべく良い〉原理を旅行に適用したら、旅行での楽しみが2つに分裂すると思えるからだ。

先ほどの宿の例をもう一度引き合いに出すと、B宿よりA宿の方が他と比べた結果総合的に安いのは事実だとしても、だからA宿は楽しいということにはならない。なんというかこれは、たとえばアイスを例に出すと、アイスクリームって美味しいねぇ!という感情の表現の結果ではなく、アイスクリームはロールケーキよりもショートケーキよりもぜんざいよりもチョコフォンデュよりも・・・よりも・・・よりも・・・よりも安いから美味しいんだ、と言ってしまうことに似ている。

A宿自体の価値はあの原理にとってはあまり面白くない話なのだ。A宿自体の価値にまつわる楽しみと原理にまつわる楽しみのように、楽しみが二つに分裂し、お互い話が通じない結果になる。

A宿は安かったから良かったよねという感想にすごくもやもやするのだ。つねにA宿自体ではなく、A宿にかかわる話に変わる可能性があるからだ。生活資金分や他の遊興費に充てることができたからよかったよねというように。じゃあ何のために白浜に来たのだろうかと思ってしまう。そのような意見に聞いてみたいのはじゃあいつ遊びは訪れるのかということだ。いや実際に遊んでいるわけだからその言い方は違うのかもしれない。遊び自体の価値にあまり興味がないのではないかと疑ってしまうだけだ。いや実際に旅行に行くという選択をしているわけだから遊びの価値はどこかで感じているはずだ。

旅行も含め遊びはお金じゃねえよという言い方はどこか現実離れしていると思われるだろうか。現実にお金は必要なのにそれを無視してしまっているからおこちゃまだという風に。あるいは、何を高等遊民みたいな言い方をしてとか、プチ・ブルジョア的理想論だとか、子供っぽいとか、いろいろあると思われる。どれも当たっていると思う。そのとおりで、遊びにはお金は必要であると思う。でもどこかで遊びはお金がすべてじゃねぇと思ってしまうのだ。遊びの価値をコスパだけで判断することは悪いことじゃないと思うけど、コスパが良いから良い遊びだったとはならないのではないか。

ああもう何も思い浮かばない。今日はこれで終わり。また書きます。

二度寝理論の巻

 

今朝僕はアラームをかけずに起きました。

最近、これは良くないなと考えたことがあったからです。

僕はかなりの朝寝坊野郎です。

というのは、アラームをかけると自動的にスヌーズが働いてしまい、どこか寝ぼけたままの頭でも、まあ後で起きればいいやと思い、気がつくと五度寝くらいしてしまうことがあったからです。

僕はこれを二度寝理論と呼んでいます。

朝寝坊野郎の二度寝理論です。理論を語る者が理論内容の一番の当事者である、ということからしてもかなり説得的な内容になっていると思われるので、しばらくお付き合いください。

まず、なぜ二度寝が理論になるのか不思議に思われるでしょうか。そんなものは普遍的じゃないよ、とも言いたくなるでしょうか。でもよくよく考えてみれば二度寝というのは一回ぽっきりの現象ではありません。そして、僕個人にだけ起こるものでもありません。「今朝は二度寝しちゃったなぁ、明日は早く起きなければ」、と誓った就寝前。翌日の朝、どうでしょう、まず我々は二度寝します。なぜなら僕らは表層的なことしか考えていないからです。眠る前の寝ぼけた頭で後悔しても、また同じ過ちを繰り返してしまうのが我々なのです。

その奥に潜んでいるのは法則なんです。たとえば、一度目の起床から二度寝の睡眠にかけてのみ二度寝は起こるのではなく、三度目の起床から四度目の睡眠にかけても二度寝は起き得ます。言うまでもなく、これは果てしなく続き、やがては普遍化されます。すなわち、n度目の起床からn+1の睡眠にかけて「二度寝」は起こるのです。初項は1でしかありえません。なぜなら0という状態はそもそも起きてないからです。当たり前でしょうね。それはいいとして、つまり、二度寝二度寝でなく「二度寝」と呼ぶべき事象なんです。何気なく使っている見かけの数字に騙されてはいけません。かつてニドネルナ博士はこう言いました、「『二度寝』は二度目の睡眠にだけ当てはまるものではないのだ」。「二度寝」の「二」は普遍的な数字なんだそうです。しつこいでしょうか。

ちなみに、僕のささやかな26年目の研究成果として、とりわけ冬のある日それは集合的に発生すると考えています。「二度寝」が冬のある一日に集合的に発生するということです。こうなると厄介です。一日という概念さえ「二度寝」は容赦なく打ち砕くからです。なぜなら、朝・昼・夜という自然界がもつ自然的な時間を打ち破り、いやむしろそれらが混然一体となった日を「二度寝」はつくりだすからです。睡眠から現実に戻ったとき「あれ今はいつの夜だ?」「そもそも今は夜の夜なのか。それとも朝の夜なのか」なんてことがしばしば起こります。肝が冷える体験をしたことがあるでしょう? 「二度寝」はわれわれにカオスな時間概念を生み出すのです。とりわけ冬のある一日に。

ただし、どんな複雑な問題も人類の叡智を結集し、理性的な方法によって乗り越えられるべきです。

そう、もっともヒューマンスティックな方法で革命は起きるものです。

でなければ、革命は閉鎖的で独善的なものになってしまいます。ある学者が数年かけて研究し、言葉の意味をダイヤモンドみたいな殻に閉じこめて定義してしまうのでは、誰もそれを嚙みくだくことができません。理論を理解するのに何の資格も要らないというのが、本物の理論です。理論的な解答は日常生活のコモン・センスに根づいて理解されるべきです。

それは言うなれば、正三角形のようにもっともシンプルで、それでいて普遍的で、さらには形而上学的なイデアのように〈かつて人間はそれを知っていた〉と思えることこそが、理論的な問題に対する答えとなるべきです。

――朝日が昇ればただ起きれば良い。

それだけ、なのです。余計なものは何も要りません。

 

というわけで今朝僕はアラームをかけずに起きました。革命的でしょう?

眠くなってきたでしょうか。

僕は明日も自然に起きる予定です。

それではおやすみなさい。

いい夢を。

 

 

 

 

 

 

 

 

キャスター交換しました。

 

ちょこっと投稿です。

 

スーツケースのキャスターを交換しました。

車のゴムの部分が経年劣化で割れてしまっていたのです。

 

金切のこぎりで車の軸(金属の棒)を真っ二つにしました。

どん

どん

どどん

「金切のこぎりで真っ二つ式」について、ネット記事は「根気よく」「10分~15分」程度と言っていました。

嘘です。

僕は2時間かかりました。

やりはじめて10分後でほんとうに切れるのかなと不安になり、15分後もさして状態が変わらず――そもそも軸部分が車に隠れて見えないから余計不安が煽られるしくみ――、1時間後にくじけそうになり一旦休憩し、1時間半後では僕の「根気」はなんて弱々しいのだと病みかけるも、続けました。

2時間後、ぽきっと折れるのかと思いきやするりと車がはずれて、なんとも、ぬるっと終わりました。

「根気」があれば10分で終わるというわけではなさそうです。そもそもAであればBのような論理関係ではない書き方なので、ネット記事を書いた人は悪くない(念のため)。

「根気」ってつくづく人によるわと思い知らされました。

 

それで、車をうけるところ(下の写真)に取りつける、新しい車をコーナンに買いに行きました。

車をはめるところ。内側の傷は2時間の死闘の証でもある。

ありました。

車の横幅が微妙にぶ厚かったのでサンドペーパーで削りました。
ワッシャーを入れてしまうとねじの横の長さが足りなくなるので省略。

さっそく取りつけました。こうです。↓

ばっちり。削り後の臭いが気になる猫。

結局、朝10時ごろから作業を始めて、削る→絶望→コーナンコーナンpro→帰宅→作業→サンドペーパー追加買い出しにキャンドゥへ→交換、という流れで19時すぎになり、一日つぶれました。

安いスーツケースを買いなおせば良かったのにって?

そんなことしたら、交換する幸せが無くなるでしょう。

え?他の車輪も脆くなっているのではって?

そうであればあと三回幸せが訪れることでしょう。

好きな小説ってなんやろう。

久しぶりです。

もう前回の記事から2ヵ月も経ってしまいました。

お元気でしょうか。

 

書く素材はたくさんあると日々日々感じていたのですが、それでも毎度、とくだん書くべきことはないわと思って放置していました。

別に丹波に行った話なんて書かなくていいとか、これはプライベートな話すぎるからダメだなとか、あのビールは美味かったとかそれ誰が興味あんねんっ!とか。悪い逆説です。

書かない理由なら、あれもこれもといくらでも書けてしまうのです。そういうエネルギーがあること自体は良いことだとは思いましたけど。

何を書くべきかを考えるより、どうしたら自分自身おもしろがって書けるのかを考えた方がより書けるようになると思い始めました。

もしかしたら話題なんてそれほど重要なことじゃないのかもしれません。

 

面白く書けるものはやっぱり小説です。

でも今回は具体的な小説について書きたいというわけじゃないです。

むしろ自分が好きな小説ってどういうものなのかを知りたいという話です。

 

自分が好きな小説はだいたい自分もそこにいる感じがするものです。主人公に感情移入できるもの。わりと子どもっぽい理由です。

でも世の中にたくさんある小説がすべて完全に感情移入できるものばかりかというと、そうでもなさそうです。

いきなり話が逸れてしまっていますが、とりあげず書き進めたいと思います。

たとえばセックス・シーンがある小説。物語で実際に主人公がセックスしていたとしても、「ああこの人たちはするんだなぁ」と急に主人公と自分との違いについて気づかされるのでだいたいそのページはさらっと読み流します。

また、過度な暴力シーンがあるもの。主人公が誰かを殺すとか、そういうシーンです。「なんでこの人はこいつを殺すのか」と自分では実際にしそうにないことが起きたときに主人公との距離を感じてしまいます。自分が誰かを殺すことにイメージを持てないから相手と私という二つの存在が自覚されてしまうのです。

反対に、感情移入しやすいものはあるのだろうか。

たとえば車に乗っているシーンはものすごく心地が良いものとイメージします。高速道路、一般道の違いはあまりありません。高速道路だったら、それも昼の場合はたいてい助手席で眠っているシーンが浮かびます。タイヤが高速道路面を踏む時の圧迫音や閉ざされた車内の密閉感が僕の中で良いものとされています。そして、横目に流れる防音壁や誰かの音楽があります。視点は上から撮られているのではなく、乗っている車内の自分の視点です。さらにいえば、橋や展望台などの観光名所とかではなく、いつも、よくある都市の中の高速か、森の中がイメージされます。

高速道路の夜はどうだろう。基本的には昼と同じだと思う。視点も一緒。ただ当たり前だけど夜の景色です。前方の車のテールランプや数メートル間隔にある電燈(それも橙色)、またひっそりと冷たそうな防音壁向こう側の林があります。そしてなぜか夜だけサービス・エリアに立ち寄ることが定番になっています。

こう書くと僕にとって感情移入できるものとはつまるところ、ある風景なり音楽なり体感が自分にとって心地よいものかどうかにかかっていると言えそうです。

これについて僕はどう判断したらいいんでしょうか。

まずこのつながり方の肯定的な面について考えてみる。

まず小説を読んでいないとき、とくにハードな生活を過ごしているときに、それに耐えうる足がかりをつくることができる点に肯定的な意味があると思う。安全地帯としての読書、とも思える。何か辛いことがあれば逃げるようにそこに行くことができる。

一方、このつながりの否定的な側面について。

自分に好ましくない結果を生むだろうとあらすじや帯を見て事前に推測される小説は、読まないということになる。自分勝手に嫌いなものを遠ざける態度が養われ、それが本当は重要なことに気づかせてくれるものであるかもしれないのに、見過ごす可能性が出てくる。成長とよぶべきものが生まれないともいえそうです。

さらにいえば、心地よいか否かという点だけで感情移入できるかどうかを測っていいのでしょうか。今のところ、感情移入できる=心地よい、感情移入できない=心地よくないという図式で自分の好きな小説について語っています。自分の好きな小説はほんとうにその範囲で良いのかと思います。もっと別の軸があってもいいのではないかと思えてきました。

たとえば、同じ属性として共感するという軸がありえそうです。自分は今働いていて、物語の誰か(主人公でもいいし、サブキャラクターでもいいし、動物でもいい)も懸命に働いている。誰かの働き具体に励まされることだってありそうです。同じ境遇で似たような反応なりをしていたら、どうだろう、自分一人じゃないんだって思えそうです。

コンビニのアルバイトをしている主人公がいるとして、客に怒鳴られたり、会計金を投げられたり、同僚から仕事を押しつけられたり、まぁ色々理不尽なことをされているとしましょう。そういう人にはあるあるとして「実は自分も・・・」と切り出して主人公(などに)に対することができる。これは心地よい/悪いの軸ではなく、同じ属性から生まれる感情移入といえそうじゃないですか。

そういう話のような、好きな小説の判断軸があっていいんじゃないかと思えてきたんです。今のところそういう小説をぱっと出せてこれないという点が、自分のおこちゃまな側面です。そろそろ大人になるべきなのかもしれません。たぶん。知らんけど。

 

備忘録として思いついたままに文章を書きました。

また整理します。

それまでお元気で。ほなまた。