二度寝理論の巻

 

今朝僕はアラームをかけずに起きました。

最近、これは良くないなと考えたことがあったからです。

僕はかなりの朝寝坊野郎です。

というのは、アラームをかけると自動的にスヌーズが働いてしまい、どこか寝ぼけたままの頭でも、まあ後で起きればいいやと思い、気がつくと五度寝くらいしてしまうことがあったからです。

僕はこれを二度寝理論と呼んでいます。

朝寝坊野郎の二度寝理論です。理論を語る者が理論内容の一番の当事者である、ということからしてもかなり説得的な内容になっていると思われるので、しばらくお付き合いください。

まず、なぜ二度寝が理論になるのか不思議に思われるでしょうか。そんなものは普遍的じゃないよ、とも言いたくなるでしょうか。でもよくよく考えてみれば二度寝というのは一回ぽっきりの現象ではありません。そして、僕個人にだけ起こるものでもありません。「今朝は二度寝しちゃったなぁ、明日は早く起きなければ」、と誓った就寝前。翌日の朝、どうでしょう、まず我々は二度寝します。なぜなら僕らは表層的なことしか考えていないからです。眠る前の寝ぼけた頭で後悔しても、また同じ過ちを繰り返してしまうのが我々なのです。

その奥に潜んでいるのは法則なんです。たとえば、一度目の起床から二度寝の睡眠にかけてのみ二度寝は起こるのではなく、三度目の起床から四度目の睡眠にかけても二度寝は起き得ます。言うまでもなく、これは果てしなく続き、やがては普遍化されます。すなわち、n度目の起床からn+1の睡眠にかけて「二度寝」は起こるのです。初項は1でしかありえません。なぜなら0という状態はそもそも起きてないからです。当たり前でしょうね。それはいいとして、つまり、二度寝二度寝でなく「二度寝」と呼ぶべき事象なんです。何気なく使っている見かけの数字に騙されてはいけません。かつてニドネルナ博士はこう言いました、「『二度寝』は二度目の睡眠にだけ当てはまるものではないのだ」。「二度寝」の「二」は普遍的な数字なんだそうです。しつこいでしょうか。

ちなみに、僕のささやかな26年目の研究成果として、とりわけ冬のある日それは集合的に発生すると考えています。「二度寝」が冬のある一日に集合的に発生するということです。こうなると厄介です。一日という概念さえ「二度寝」は容赦なく打ち砕くからです。なぜなら、朝・昼・夜という自然界がもつ自然的な時間を打ち破り、いやむしろそれらが混然一体となった日を「二度寝」はつくりだすからです。睡眠から現実に戻ったとき「あれ今はいつの夜だ?」「そもそも今は夜の夜なのか。それとも朝の夜なのか」なんてことがしばしば起こります。肝が冷える体験をしたことがあるでしょう? 「二度寝」はわれわれにカオスな時間概念を生み出すのです。とりわけ冬のある一日に。

ただし、どんな複雑な問題も人類の叡智を結集し、理性的な方法によって乗り越えられるべきです。

そう、もっともヒューマンスティックな方法で革命は起きるものです。

でなければ、革命は閉鎖的で独善的なものになってしまいます。ある学者が数年かけて研究し、言葉の意味をダイヤモンドみたいな殻に閉じこめて定義してしまうのでは、誰もそれを嚙みくだくことができません。理論を理解するのに何の資格も要らないというのが、本物の理論です。理論的な解答は日常生活のコモン・センスに根づいて理解されるべきです。

それは言うなれば、正三角形のようにもっともシンプルで、それでいて普遍的で、さらには形而上学的なイデアのように〈かつて人間はそれを知っていた〉と思えることこそが、理論的な問題に対する答えとなるべきです。

――朝日が昇ればただ起きれば良い。

それだけ、なのです。余計なものは何も要りません。

 

というわけで今朝僕はアラームをかけずに起きました。革命的でしょう?

眠くなってきたでしょうか。

僕は明日も自然に起きる予定です。

それではおやすみなさい。

いい夢を。