叩いたら埃が出る布団のような話

前々から人とかかわる上での違和感がある。

それが何なのかうまく言語化できないので、今すぐに「こういう違和感である」と続けることができない。キーワードくらいなら出せると思う。お金と枠づけと自由。それぞれがどういう論理的な関係をもっているのかもいまいちよく分かっていない。分からないことだらけだ。

違和感の顕著な例として、今から書きたいと思う。

 

休みの日に友達と白浜に遊びに行くとする。

僕はせっかくの休みだしのんびりしたいと思う。海で泳いでくたびれて、温泉につかり癒されて、刺身盛りにビールをあわせて良い気分になる。少し手を伸ばせば触れることのできるユートピア。誰もが憧れる楽園である。

さて、こういう遊びには必ずお金が必要である。海に行くまでの電車代や入湯料、そして食事代やアクティビティ代などもろもろある。いろいろお金は必要である。お金は旅行のみに限らず普段の日常生活を維持させる。旅行と日常生活をお金を軸にして天秤にかける。だから〈なるべく安くなるべく良いモノ・コトを〉という生活原理が生まれる。なぜなら、ある人の手持ちの全財産が100万円だとして旅行代金をすべてつっこむということはめったに起こらないことと思えるからだ。生活資金分は残しておきたいとほとんどの人なら思うだろう。毎月の財布の収支が厳しいのならなおさらだ。

この原理を白浜旅行に適用しよう。

まず移動手段から考える。移動手段には、兵庫→白浜を想定して現状、車や電車や飛行機に徒歩や自転車が考えられる。車でも自家用車かレンタカーがあると思うが、さしあたりレンタカーしか使えないと考える。そしたら次はレンタカーはどこで借りるのが一番安いかになる。AとBとCの候補があるとして、C社が一番安いのでそれを借りる。今それを5000円(終日)だとしよう。こうして車で行くのであればC社の5000円レンタカーが選んだ中の一番安いプランということになる。以下移動手段自体にお金のかかるもの、すなわち電車と飛行機でも同様のことを考え車と比べた結果、電車で行くことが一番安いことになった。電車は3000円(往復)である。

次に宿代。白浜エリアにまず宿がいくつあるのかを考える。10候補あるとしてその中から一番安いものを探す。また、なるべく海に近い方がいい。遠ければそこまでの移動時間と費用がかかってしまうからだ。仮に海とA宿の距離が10メートル、B宿までが2キロメートルあるとしよう。2キロメートルは歩けないからタクシーを使うとすれば500円になる。10候補のうち値段が安い方から数えているとして、A宿が5000円、B宿は4800円だ。確かに宿の中で一番安いのはB宿だがそれを選べば追加料金1000円(タクシーの往復)がかかり、5800円という結果になる。したがって、A宿が決定する。この結果は10店舗のうちで一番安い宿はBだから〈なるべく安くなるべく良いモノ・コトを〉という原理には反するけれども、海までの移動距離と費用を追加的に与えた条件として設定することで、その点ではAの方がその原理に合致することになる。

さらに買い物について……、もうここまでにして話を進めたい。なんとなく言いたいことが自分自身見えてきただろうか。

要はまず一つ違和感なのは、のんびりしたい旅行のわりには、〈なるべく安くなるべく良いモノ・コト〉原理を適用すると、かなり多くの下調べが必要で、あれこれ引き出した情報を選び、時には追加的な条件までもちこんで旅行をしなければならないことだ。とにかく大変なことである。もちろんそういうことを考えない時間もある。海に入って泳ぎまくるか、お湯につかってぐったりするか、寝ている時かもしれない。一方で、旅行全体としてのんびり過ごすことはできないように思える。大半の時間は、検索の時間、判断の時間、議論の時間に費やされてしまう。

でもこの違和感が生まれるのはそもそも、のんびりしたいという目的と〈なるべく安くなるべく良いモノ・コト〉原理が対立するからなのだろうか。のんびりしたいけれどあの原理自体も大切だと考えるなら、仮に旅行全体がのんびりにならなくても良し、と考える人もいるのではないか。たぶんいるだろう。けっこう要領よく物事をこなすタイプにちがいない。

僕はそれでも全体としてのんびりしていたい派だ。なぜなら〈なるべく安くなるべく良い〉原理を旅行に適用したら、旅行での楽しみが2つに分裂すると思えるからだ。

先ほどの宿の例をもう一度引き合いに出すと、B宿よりA宿の方が他と比べた結果総合的に安いのは事実だとしても、だからA宿は楽しいということにはならない。なんというかこれは、たとえばアイスを例に出すと、アイスクリームって美味しいねぇ!という感情の表現の結果ではなく、アイスクリームはロールケーキよりもショートケーキよりもぜんざいよりもチョコフォンデュよりも・・・よりも・・・よりも・・・よりも安いから美味しいんだ、と言ってしまうことに似ている。

A宿自体の価値はあの原理にとってはあまり面白くない話なのだ。A宿自体の価値にまつわる楽しみと原理にまつわる楽しみのように、楽しみが二つに分裂し、お互い話が通じない結果になる。

A宿は安かったから良かったよねという感想にすごくもやもやするのだ。つねにA宿自体ではなく、A宿にかかわる話に変わる可能性があるからだ。生活資金分や他の遊興費に充てることができたからよかったよねというように。じゃあ何のために白浜に来たのだろうかと思ってしまう。そのような意見に聞いてみたいのはじゃあいつ遊びは訪れるのかということだ。いや実際に遊んでいるわけだからその言い方は違うのかもしれない。遊び自体の価値にあまり興味がないのではないかと疑ってしまうだけだ。いや実際に旅行に行くという選択をしているわけだから遊びの価値はどこかで感じているはずだ。

旅行も含め遊びはお金じゃねえよという言い方はどこか現実離れしていると思われるだろうか。現実にお金は必要なのにそれを無視してしまっているからおこちゃまだという風に。あるいは、何を高等遊民みたいな言い方をしてとか、プチ・ブルジョア的理想論だとか、子供っぽいとか、いろいろあると思われる。どれも当たっていると思う。そのとおりで、遊びにはお金は必要であると思う。でもどこかで遊びはお金がすべてじゃねぇと思ってしまうのだ。遊びの価値をコスパだけで判断することは悪いことじゃないと思うけど、コスパが良いから良い遊びだったとはならないのではないか。

ああもう何も思い浮かばない。今日はこれで終わり。また書きます。